反映 – ウォルター

ウォルター・セル, 京都

反映についての導入の投稿(創造について – グルジェフ(パート3) – 反映)において、アサフは「反映(reflection)」という言葉の意味について述べている。この言葉は、時代が変遷するなかで「ある特定の方向に思考を定着させる」という意味へと変わっていった。実はこの概念は、道教の文献である『太乙金華宗旨(黄金の華の秘密)』の基礎であり、「回光(光の回転)」と呼ばれている。

回光の功は全く逆法を用う。想を天心に注ぐ。
(瞑想法である光の回転はふつうとは逆方向の運動によっている。つまり想念を天上の心へと集中するのである)
( 『太乙金華宗旨』、第一章「天心」)
宗旨の行法は、別に進むを求むるの法無し。只だ、想をここに純にするに在り。楞厳経に云く、「想を純にすれば即ち飛び、必ず天上に生まる」
(この光の回転という根本原則を実行するに当たって、何も他の方法を探し求める必要はない。ただひたすらにここ – 光の回転 – に想念を集中しさえすればよいのである。楞厳経にはこう述べてある。「想念を純粋にすることによって、人は飛ぶことができ、必ず天上に生まれるのである」)
( 『太乙金華宗旨』、第一章「天心」)

「純粋な想念」とは、自分の注意力の方向を向け直そうとする想念である(回光 – 光の回転)。通常の生では、人の注意力は外なる世界だけに焦点を向けている。そのため「純粋な想念」とは、日常活動を行いながら、自己に気づく目的で自分の内なる世界に注意力を向ける、という想念を指している(「飛翔」と「天」は高次の意識状態の象徴であり、肉体で飛ぶことを意味してはいない)。「光の回転」(光=気づき)とは、「注意力の分割」という第四の道の考え方と同様の意味を指す表現である。この自己への気づきがなければ、人の感情は好き勝手に振る舞い、とりわけ否定的感情によって意識状態は低下してしまうのである。

一日の間に小さな否定的感情は何度も生じてくる。もし人が機械的な態度(たとえば「彼は愚か者である」)を、ワークにとって刺激となる態度(たとえば「彼は眠っており、自分のしていることに気づいていない」)で置きかえるなら、そうした否定的感情は一日の中で覚醒の努力を想起させる目覚まし時計となることができる。否定的感情を表出して、それに気づいたとき、私がよく使うのは「これは私ではない」という想念である。これが意味するのは、否定的感情を表出した「私」は低次の自己(ローワーセルフ)から来たものであり、それは「真実の私」ではないということである。

否定的感情を表出するとき、「私」という感じやそのアイデンティティは否定的感情に強くむすびついている。言いかえれば、そのとき自己同一化は非常に強くなっている。「これは私ではない」という想念をもつことで、私は自分が否定的感情そのものではないことを自分に想起させるのである。

私の本当のアイデンティティは高次の自己(ハイアーセルフ)であり、この想念の結果として、私は自分のアイデンティティを否定的感情から引き離し、それを否定性の気づきへと移す努力を始める。こうして私の注意力は、自分の内面の否定的エネルギーと、このエネルギーに気づいてそれから分離する部分との間で分割されることになる。この気づきを保てば、徐々に高次の自己が目覚めてくる。そのため、この努力の成否は、どれほど長くこの気づきを保てるかにかかっている。この気づきが止まれば、すぐに私のアイデンティティは否定的感情へと引き戻されてしまうのである。

一日の間に困難を経験するときに役立つ別の想念は、「この問題が私に起こっている。だから私は第二の意識的ショックを練習することができる。それは否定性や苦しみの変容である」というものである。目覚めるためには、摩擦、苦しみ、否定的感情を変容する方法を学ばなければならず、そのためには修練が必要となる。修練を行う機会が生じたときには、それを決して無駄にすることなく使わなければならない。

私たちは機械的に、摩擦が人生を不愉快にするものだと見なしているため、摩擦は何か避けたり、免れるべきものだと考えている。しかし、自己に対するワークという観点から見れば、摩擦は自己想起を始めるための目覚まし時計であり、摩擦の変容によって、突然より深いプレゼンスの状態に入ることができる。そのため摩擦は避けるべきものではなく、むしろ受け入れるべきものである。人は誰もが摩擦を経験するが、それを変容するツールが与えられているなら、このことに感謝することができる。もしこうした態度でワークが成功すれば、非常に困難であった摩擦は今や大したものではなくなる。なぜなら、人は高次の自己のプレゼンスという奇蹟を体験できるからである。

我々が意識を発達させるワークをするために使う特殊な方法がある。それは我々の意志にもっともよく従う道具、すなわち我々のマインドあるいは知性センターを使う方法である。(ピョートル・ウスペンスキー)