分離 – ウォルター

ウォルター・セル, 京都
グルジェフ - 創造
自由とは、あたかも興味をそそる見知らぬ他人を称賛や非難なく眺めるがごとく、自分自身を公明正大に眺めることを指している。(ロドニー・コリン)

第四の道によれば、人には真実のアイデンティティ(主体性)がない。つまり人には真実の「私」がない。ところが、世の中で首尾よく機能するにはアイデンティティが必要である。たとえば、人が就職面接で成功するには一定の自信と、自分がどんな人間なのかという感じを抱いていなければならない。

人間の空想的なアイデンティティは時が経つと次第に形成され、十代の青少年のほとんどがアイデンティティの危機を経験する思春期にはほぼ固まってしまう。この空想的な自己イメージにおいて、自分の好きでない側面や見たくない側面は排除され、自分がそうありたいと望み、自分がそうだと信じる空想的な性格だけが描かれてゆく。

ワークの観点から自己を観察し、自分が空想的なイメージを抱いていて、現実には空想していたような人間とは違うのだと理解しはじめると、多くの場合それは大きなショックとなり、ちょっとしたアイデンティティの危機を招くことだろう。実はこの観察は、一時的に起こる自己想起の状態であり、そのとき観察する部分と観察される部分との間で分離が生じることになる。その際に、真実の自分は観察される対象ではなく、観察する側の自分だという点を想起するのは役に立つ。また、ロドニー・コリンが述べているように、自分自身を「興味をそそる、見知らぬ他人として」眺める態度を試してみることもできるだろう。

こうした観察をすれば、「自分自身を観た」ショックによって感情的に内面が混乱するかもしれない。ところが、こうした観察に困難を感じている自分の一部はリアルではなく、自分の空想的な自己イメージが反応しているにすぎない。つまり、空想していた人間とは自分が違っていたのだと感情的に認識するショックに刺激され、まるで心の風車が回るかのように、一連の思考が何度も繰り返し頭をよぎるのである。

しかし、その短い一瞬に自分が観察したこと、それこそが真実である。こうした困難を感じる際に自己を想起し、複数の「私」に耳を傾けないことができれば、より深い分離や変容が起こり、高次の自己(ハイヤーセルフ)が低次の自己*(ローワーセルフ)からはっきりと分離される可能性がある。人は肉体の中にありながら、この肉体は自分が入っている単なる容器として体験され、肉体が生み出す思考、感情、感覚はもはや「私」としては体験されなくなる。そのとき、自分のアイデンティティは肉体から分離したものとして経験され、驚異の念、時には哀れみの情と愛情を感じながら肉体を眺めるようになる。この状態こそが自由の本当の意味である。

自己想起の修練によって新陳代謝の微妙な部分が変わり、はっきりとした科学的、あるいは錬金術的といったほうがよい効果が肉体に生じる。(ピョートル・ウスペンスキー

分離が生じるもっとも極端な体験としては、体外離脱の体験があげられる。ところが、この体験は非常に稀れにしか起こらず、瀕死状態の体験など、極端なショックの結果としてしか起こらない。

深い自己想起の状態を経験したあとに、低次の自己による錯覚が起こるのは珍しいことではない。真実の「私」の存在によって低次の自己は脅威にさらされる。なぜなら低次の自己はもはや支配力を失い、それが真実でないことが明らかになるからである。このため、低次の自己は失われたものを取りかえそうとして、自分こそが真実だと説き伏せようとする。また、自己想起の状態が消えてしまった状態でも、低次の自己はそれで目標に達したのだと信じ込ませる。人は、他人よりも自分の方が優れていると感じはじめ、自分が恒久的に目覚めた状態にあると空想しはじめるのである。ところが、実はそうした自己想起の体験は、目覚めが意味しているものをほんの少し垣間見たにすぎない。

このため、第二のラインのワークを行うことが必要である。第一のラインのワークは自分自身のためのワークであり、知識を学び、自己を観察し、この知識が真実であることを確証し、自己想起の努力をすることを指している。これに対し、第二のラインのワークは他の人々と行うワークである。第二のラインのワークでは、質問について意見を受けとったり、他の人々の体験を自分の体験と比較することができる。自分の努力が空想的になるのを避ける上で、第二のラインのワークはきわめて重要である。人は、低次の自己がもたらす錯覚を見抜き、自己想起と分離が正しく起こっていることを見はじめるのである。


*注)低次の自己という用語について:スーフィズム(イスラム教神秘主義)の伝統では、自我消滅による神との合一(ファナー)を目指す上で障害となる人間の「エゴ」として、アラビア語の نَفْس (nafs, ナフス)という言葉が使われていました。英語圏のスーフィズム研究者の間では、多くの場合この用語は lower self (低次の自己)と訳されています。グルジェフ自身はこの用語を使用していませんでしたが、現代の第四の道では、この「低次の自己」という表現を借りて、眠りをもたらす人間の機械性一般を指す場合があります。