自己観察 – ウォルター

ウォルター・セル, 京都
グルジェフ - 創造
自己を観察することで、人間は、それまで完全な闇のなかで起こっていた自分の内的プロセスにいわば光を投げかける。(ゲオルギイ・グルジェフ

人がもし誠実に自己を観察するなら、普段の自分に「自己への気づき」がないことを確証できることだろう。この観察そのものが自己想起の瞬間であり、自分の眠りというこの確証は自己に対するワークの基礎となるものである。この確証がなければ、自己に対するワークは空想の中で起こるほかはない。

家から外出する直前になって、鍵や携帯電話が見つからないという経験は誰にでもあることだろう。鍵や携帯電話をどこに自分が置いたのか分からないという事実が意味するのは、(いつも置いておく以外の場所に)それを置いた瞬間に注意を払っていなかったということである。その瞬間に注意力は自分の行動に結びついていなかったのであり、こうした場合の大半は、その人が空想の状態にあったといえるだろう。つまり、過去に起こったことや、将来に起こることへの空想に注意力がうばわれていたのである。自己観察とは、特定の瞬間に人が自己に気づき、自分の内面の状態(あるいは自分の外的な行動)を見ることを意味している。自己観察とは、何か自分に起こったことを考えたり、自分の思念を吟味しようとした直前に頭に浮かんでいた思念を考えることではない。自己観察とは、ある特定の瞬間に何が自分の内面で起こっているのかを観ることを指している。そのため、自己観察とは実際には自己想起の瞬間である。

自己観察はある瞬間の内面のスナップ写真をとり、その写真を客観的に眺めることに似ている。だが、これを実践するのは容易なことではない。なぜなら、見たことについてすぐに自分の中で他の部分が説明や判断、批評をはじめるからである。こうした説明や判断によって観察した内容はぼやけてしまい、観察は主観的になってしまう。内面で生じる閃光はすぐさま暗闇につつまれてしまい、残るのは自分の客観的な写真ではなく、空想的な自己イメージになってしまう。見たことを言葉で説明することで、「低次の自己」はその人を暗闇へ引きもどしてしまうのである。

アマテラス(天照大御神)について伝わる日本神道の神話はこの考え方を反映している。アマテラスは太陽の女神であり、その名前は「輝ける天」または「天に輝ける方」を意味している。低次の自己*を象徴している弟の風神、スサノヲ(須佐之男命)が大地を荒らすと、アマテラスはその騒がしい振る舞い(自分について発言し、判断する複数の「私」)を避けて天岩戸に引きこもり、巨大な岩の扉を閉じてしまった。アマテラスの姿が消えたことで世からは光(=気づき)が奪われ、その結果、暗闇の中で悪鬼たちが大地に禍をもたらした。

この物語において、アマテラスは自己想起による観察の光を象徴している。この自己観察の光が失われている時には、悪鬼たち — 頭の中をかけめぐる思考や感情 — が眠りまたは暗闇の状態におちいった生を左右しているのである。他の神々(自己想起を思い起こさせる「私」)は、あらゆる手段を使ってアマテラスを天岩戸から誘い出そうとしたが、無駄であった。最後にそれに成功したのはアメノウズメ(天宇受賣命)であった。天岩戸からついに姿を現したアマテラスが、賢木にアメノウズメがかけた八咫鏡に映る自らの輝かしい姿を見たとき、世を照らす光がもどってきたのである。汚れのない(思考と感情を象徴している塵を払った)八咫鏡は、真実の「私」を映しだす、浄化された感情センターを指している。これが意味しているのは、自分の見たことが善か悪かを判断することなく、自己をあるがままに観察することである。

Amaterasu天岩戸から姿を現し、世を光で照らす天照大御神 (岩戸神楽ノ起顕)


*注)低次の自己という用語について:スーフィズム(イスラム教神秘主義)の伝統では、自我消滅による神との合一(ファナー)を目指す上で障害となる人間の「エゴ」として、アラビア語の نَفْس (nafs, ナフス)という言葉が使われていました。英語圏のスーフィズム研究者の間では、多くの場合この用語は lower self (低次の自己)と訳されています。グルジェフ自身はこの用語を使用していませんでしたが、現代の第四の道では、この「低次の自己」という表現を借りて、眠りをもたらす人間の機械性一般を指す場合があります。