見えるか見えざるか

アサフ・ブレーバーマン, カリフォルニア

普段、私たちは知らぬ間に空想におちいっている。だが、私たちは自らの意志で空想に入ることができるだろうか?(今あなたは、この画面を見ながら、空想している状態に無理に入ることができるだろうか?)あるいは普段、私たちは知らぬ間に自己同一化におちいっている。だが、私たちは自らの意志で自己同一化の状態に入ることができるだろうか?(今あなたは、この画面の内容にひどく魅入られて、自分という感覚を失ってしまえるだろうか?)

自分は〈眠り〉の状態に自由に入れるというわけではなく、〈眠り〉はただ機械的に自分に起こっているのだ、と認識すれば、私たちは「見る」ことの力を確証する。この問題について、ゲオルギイ・グルジェフはこう語っている。

暗やみの中でしか生じない多くの心理的プロセスがある。意識というわずかな光でさえプロセスの性質を完全に変えるのに十分であり、さらにプロセスの多くが完全に生じなくしてしまう。(ゲオルギイ・グルジェフ)

Gurdjieff-Pyramid-3Stepsもし〈それ〉がいったん自分に見えてしまえば、私はそうすることができない。私がそうするには、〈それ〉が見えていてはならないのである。以前の投稿で紹介したピラミッドで、「認識」の上にある二番目の段が「観察」と呼ばれているのはこのためである。私たちは自己観察によって、空想、否定性、自己同一化、焦燥感、内的考慮と闘っている。実は、自己観察そのものによって、こうした機械的な習慣のほとんどは弱くなるのであり、場合によっては、そうした習慣のいくつかは二度と起こりえないものとなる。自己観察は、観察したその瞬間に新たな次元の気づきをつけ加えるものである。私はある瞬間に、自分の知性が空想におちいっているのを観察し、自分の身体が焦燥感に駆られているのを観察し、また自分の感情が内的考慮しているのを観察する。— 「私は観察する」、ゆえに「私は在る」のである。

これを言いかえれば、「見るか、それとも見えざるか?」という問いは、「存るか、それとも在らぬか?(To Be or not to Be?)」という問いかけと同じなのである。