意識について - ウスペンスキー

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ウスペンスキー
はその教えの中心に「意識」を据えていた。ウスペンスキーの主張によれば、自然は意識の一定のしきいまでしか人間をいたらせることはなく、人間がその限界を超えて進むには慎重かつ知的な努力が必要になる。さらに、その主張によれば、自然には生じないが人間に獲得の可能性がある二つの意識状態、すなわち「自己意識」と「客観的意識」は、あまりにも稀でめったに生じないため、事実上は人間にとって存在しないと考えてよいというのである。

意識の指標について – ウスペンスキー

第一は意識の「持続度」である。つまり、人がどのくらいの時間にわたって意識的だったかである。第二は意識の「出現頻度」である。つまり、人がどのくらいの頻度で意識的だったかである。第三は意識の「範囲と浸透度」である。つまり、人が何を意識していたかであり、これは人の成長レベルに応じて大きく異なっている。(ピョートル・ウスペンスキー)

ウスペンスキーは、意識には様々な度合いがあること、そして人間における意識の実現は徐々に起きることを強調していた。上に示した意識の成長に関する三つの基準 ― 頻度、持続度、深度 ― は順番に関連しあっている。つまり、十分な意識の頻度があってこそ意識の持続が可能となり、また意識が十分に持続するからこそ実際にその深さが生じうるのである。このため頻度、持続度、深度は人間の意識についての自然な指標となる。

ウスペンスキー-降誕-フランドル絵画

キリスト降誕図、フランドル絵画

意識のしきいとなるこれら三つの指標は、「火花」、「炎」、「火」という古代の喩えを現代的に表現したものだと言える。秘教的キリスト教では、これら三つの光の段階を使って意識または内的な光が持つまさに同じ側面を表現していた。

秘教的キリスト教では、これを神の子の「受胎」、「誕生」、「成熟」に結びつけていた。マリアの受胎は「火花」であり、イエスの誕生は「炎」、そして受難と磔刑にいたるイエスの成熟は「火」に対応していた。秘教的な観点からみれば、キリスト教の福音書は人間における意識の進化を神話形式で描いているのである。

意識の頻度 – 火花

ウスペンスキー-受胎告知-フランドル絵画

受胎告知の火花と聖母マリア

火花は最も小さく短い火の現れである。火花は一瞬の光を放って消えてしまう。火花はそれだけでは十分な明かりとはならない。それは本来、燃焼を起こす力があるために大切にされている。火花が続けて生じれば、そのうちの一つが燃料の源に落ちて長続きする炎が生じる見込みが高まる。

これと同じように意識も現れては消えてしまう。すなわち、意識は私たちの内的な風景を一瞬照らしてから消えてしまい、私たちを暗闇の中にとり残すのである。修練を経ていない人間の場合、その意識の火花は弱々しい。その火花はあまりに短く、稀にしか起こらないため、容易に見落とされたり過小評価されてしまう。

だが、意識の火花がもっと頻繁に生じるなら、人間は自己意識へと近づき、自己というものに対する経験は変容されてゆく。そのため、意識を評価する際に注目すべき最初の変量は火花の頻度なのである。

大天使ガブリエルが聖処女マリアの前に姿を現して神による受胎を告げる「受胎告知」は、秘教的キリスト教においてそうした火花のことを指している。マリアが象徴しているのは、精霊の火花を受けとって炎を長く燃焼させるために用意された燃料なのである。

意識の持続度 – 炎

ウスペンスキー-炎-フランドル絵画

キリスト降誕の炎を守るヨセフ

炎の強さと持続度は火花とは比べものにならない。炎は力強さには欠けるものの、外からの力が消さない限り瞬時も消えることがない。観察を持続する上で、炎は十分に長く燃えて部屋全体を照らすには弱すぎる。しかし、部屋のあちこちやそこにあるものを見る上で十分な光を放つのである。

だが、火花がなければ炎はつかない。火花が起きる頻度が高まれば、ある火花によって実際に燃焼が起こる可能性が高まってくる。消えても当然のような単発の火花とは異なり、高い頻度で火花が生じるなら、それ自体に勢いのある小さな炎が起きるかもしれない。このため頻度が高まれば、意識の第二の変量、つまり持続度の実現という扉が開くのである。

意識の火花をしっかりと受け取ったマリアを表現するため、キリストの降誕を描いたフランドル派の画家たちは多くの場合に、蝋燭を手にしながらその炎を守る夫のヨセフの姿を示している。エソテリック(秘教的)な観点から見れば、幼子イエスは、燃料(聖処女マリア)の上に火花(精霊)が落ちて生じた結果を象徴しているのである。

意識の深度 – 火

ウスペンスキー-火-フランドル絵画

キリスト受難の火

炎の性質が火花の性質を上回るのと同様に、火の属性は炎の属性よりも高いものである。火はもはや炎のように弱々しくはなく、偶然消えてしまうことはない。赤々と燃え上がる火は安定しており、何かを投げ込んでも、むしろその火勢は増すばかりである。火は完全に暗やみを照らし出し、それは暖炉が居間を明るくして暖めるのと同じである。

炎はまず火花が起こってから生じる。それと同じように、実際に意識に深度が生じるのは意識が長時間持続した場合に限られる。まさに火が強く燃え上がる程度には限度がないように、意識の深度にも限度はない。ウスペンスキーが観察したように、それは「人の成長レベルに応じて大きく異なっている」。私たちの自己とその周囲にある世界をどれほど深く見ることができるのか、そしてどれほど多くのことを知覚できるのか、という次元には限りがないのである。

秘教的キリスト教は、キリストの激しい受難によってこの意識の深度を表現している。このフランドル絵画では、背景で燃える木としてそれを予示している。受胎に始まって磔刑に終わるイエスの象徴的な旅を通して、その火花は火へと変容され、眠りの状態の特徴である暗やみを消滅させたのである。

意識の重要性について – ウスペンスキー

秘教的な意味では、福音書の奇蹟が伝えているのは人間の意識的な啓発、教化である。それらの奇蹟は、ウスペンスキーが大まかに要点を示したように、徐々に現れてくる内的な光を三つの順序で表現している。この観点から見れば、ウスペンスキーがシステムの中心に自己意識を据えて、それ以外の概念は全てその中心を支えるスポークのようなものだと述べたのは当然のことだと言えよう。第四の道に見られるその他全ての概念を実現するのは「意識の光」である。だが、意識自体の重要性を理解するには既に自己に対する一定の気づきが必要となるため、それは意識的覚醒へ向かう際の困難なテストとなる。「人々はよく、もし意識的になれば一体何が手に入るのか、と質問する」 ウスペンスキーは生徒たちにそう語っていた。「こうした質問をするのは、意識によって生じる結果について人々が無知だからだ。もし私たちが意識的になり目覚めれば、高次のセンターにつながることになる。そうすれば一切が変わるのである」